エッセー

打算による優しさと善行の是非

打算は悪か?

打算は悪いことであろうか。ふむ、聞こえは良くないように感じる。なんというか“ずるい“とか“姑息“だとか、どこか悪い印象を受ける。

なぜか。その人の行動や発言が心からのことではないように考えてしまうからだろう。

そう考えるとやはりあまり気持ちよくはない。

しかし。心からのことではなくとも、その人のやった事が本人や周りの人達にとって良い事であるならばそれは悪いことではないと思うのだ。

得から徳へ

仏教に徳を積むという教えがある。良いことをすれば巡り巡って自分や子孫に良いことが返ってくるという考え方だ。

少し乱暴な言い方になるが、これはつまり“良いことをすると得をする“ということだ。

この順序を逆にしてみよう。

“得をするから良いことをする“

ガラッと印象が変わるのではないだろうか。

損得勘定であり打算的である。

しかしこの“得“こそが“徳“につながる。

人はそんなに高尚じゃない

“良いことをすると得をする“と“得をするから良いことをする“

どちらの方がより良いかと言われれば、それはもちろん前者であろう。

打算ではなく心からの行いだからだ。

子供の頃の私はそういった心こそがだ大切だと思っていた。打算ではいけないという考えであった。

しかし大人になり色々経験していくうちに考え方が変わってきた。

もちろん心は大切だと思ってはいるが、いつしか自分はそんなに立派な人間ではないと気づく。

心から素直に人に優しくしたり、良いことをするのはそんなに簡単ではない。

それならば、損得勘定であれ打算であれ、良いことをした方が良いと思うのだ。

我ながらずるいとは思うが、こうした方が得だなと思うと割と簡単に人に優しく出来たりする。

動機が誉められたものではなくても結果良いことをしているならそれで良いではないかと思うのだ。

自分や人に対して寛容になれる

この考え方の利点は人に優しくできることだ。

いつもなら“こいつ!“と思うときや“こいつにしてやってもしょうがないな“と思うところでも、“ああ、ここで優しくしておけば後々良い事があるな“と思い優しくできる。

普段なら怒るところを怒らずに優しくできるのだ。

この時点でもう得をしているようにさえ感じる。

いつかは“心から“が増えていく

こういったことを続けていけば少しはマシな人間になれると思う。

打算的であれ表面的には優しい人だ。(少なくともこれをやる前よりは)

そしてそのうちに、打算ではなく心から良い事をする事が増えていく。

打算ではなくそれが当たり前になってきたらしめたものだ。

初めは打算による優しさや善行でかまわない。

そうやって少しづつ成長できればそれでいいのだと思う。